top of page

いつも今が旬!50年以上第一線で活躍するイラストレーター&エッセイスト・81歳田村セツコ 

更新日:2020年7月28日



1938(昭和13)年東京生まれ。戦時中は栃木県に疎開。高校卒業後、銀行に勤務し、1年で退職。1956(昭和31)年、抒情画家・松本かつぢ氏の紹介でデビュー。1960年代には「りぼん」「なかよし」「マーガレット」など少女漫画誌の表紙やイラストを描き、人気に。以後、女性イラストレーターの第一人者として活躍。『いちご新聞(サンリオ)』は1975(昭和50)年よりイラスト&エッセイを担当している。


第4回目のゲストは、イラストレーター&エッセイストの田村セツコさん。

1956(昭和31)年にデビュー後、50年以上も第一線で活躍するイラストレーター&エッセイストだ。


現在、小説誌『qui-la-la(キララ:小学館)』の表紙、『月刊清流(清流出版)』でイラストとエッセイを連載中。『いちご新聞(サンリオ)』では、1975(昭和50)年の創業以来、イラストとエッセイを連載している

現在、とちぎ蔵の街美術館で個展を開催中(以下、松宮撮影)

「館内は撮影OK」というのがセツコさんらしい


物憂げなアリスが印象的な『すてきな帽子 セピア色のアリス』 (油彩)

幻想的な『森のささやき』 (油彩)

創作活動はイラストだけにとどまらない。ただ絵や作品を展示するのではなく、館内にセ ツコさんが住み、息づいているような雰囲気。テーマは「心の中にある屋根裏部屋」だそう

2018年9月下旬。都内の某喫茶店へ。すると、待ち合わせ時間の10分前にセツコさんが登

場!

首に黒猫の顔がついたストラップ。「市販のウィッグに自分で前髪をつけた」というヘアスタイ ルもキマッてる!

タイツを切ってつくったという、緑の手袋(よーく見 ると、ここにも黒猫が!) Photograph By Hiroko Muto

キュート&個性的、ロマンティックなセツコさんは自分の作品から飛び出してきたようだ


席に着いたセツコさんは雨が降る窓の外を見たり、本を出してチラッと目を通したり。ふ とテーブルに目をやると、コップについた水滴を拭いたりと、“今、一番自分が気になるも の”を目まぐるしく追う。まるで全身に感性が張り巡らされているみたい Photograph By Hiroko Muto

しかしピリピリとした雰囲気も、相手を置いてきぼりにすることもない。“好奇心の散歩”

が終わると、瞬時にこちらへ戻ってくる。


「わたしは本当に普通の家庭で育ったし、とっても平凡なの」と小声で語る Photograph By Hiroko Muto

いや、“類い希なる個性の塊”だと思うのだが・・・

セツコさんの個性はいかに確立されたのか?!



長女として育ち、人の面倒を見るのが好きだった子ども時代


-セツコさんはお子さんだったんですか。やっぱり絵を描くのが好きだった?


「紙と鉛筆があれば(絵を描けるから)OK!」という感じ。贅沢なものは全然ほしくな

かったの。お金を使わないので「節約の節子」と呼ばれてたぐらい。空箱で家をつくってカーテンをつけたり、でたらめな詩を書いたり(笑)。物語をつくってた。


-やっぱり子供のころからクリエイティブだったんですね!両親の影響ですか?


つい最近のことなんだけど、実家から父が描いた女性の水彩画が出てきたの!美術館には

連れて行ってもらったけど、お堅い公務員だったから父が絵を描くとは知らなかった。



(左から父・一雄さんと生後間もないセツコさん、母キヨさん Photograph By Hiroko Muto

-へえ~、不思議!やっぱりお父さんとのつながりを感じますね。お母さんは・・・


母は若い時には洋裁が好きで習っていたのね。小学生の時、母が着物を壊して縫ってくれ

たワンピースの評判がよくて。職員室で先生に「ちょっと歩いて見せて」と言われたりね。


実は絵が好きだったというお父さんと、洋裁が上手だったお母さん。セツコさんのクリエ

イティブな才能は、どちらからの影響もうかがえる。


-ご兄弟は?


4人兄弟の長女で弟1人と妹が2人。だからね、長女という意識がとても強い。一番下の弟

は私が8歳の時に生まれたのね。面倒をみるのは当たり前でおんぶしたまま縄跳びをしたり、走ったり。ハードル高い(笑)。でも、だから私は今も身体が丈夫なの。


「昔から人に構うのが好きだった」というセツコさん。「夜、家計簿をつけている母には

コールドクリームでマッサージをして、うるさがられていた」とのこと。「妹や弟のヘアカットもしていたんだけど、失敗したら『かわいい!』とか言ってごまかしてたの」と笑う。


自宅には両親や妹、恩師など亡くなった人々の名前が!毎朝起きると、全員の名前を読み 上げて「おはよう」と挨拶。「だから1人でも寂しくないの」 Photograph By Hiroko Muto

笑いが絶えず、「来客だったんですね」と近所の人に言われるほどにぎやかな家族。昔の

ことを笑顔で語るセツコさんをみると、「とても仲がよかったな」と推測できる。



4回も転校した小学生時代


-小学生の時、目黒から栃木、大田区で2回と合計4回転校したそうですね。


隣の子と喋るようになると、引っ越し。でもそれが不幸とかじゃなくて。おかげで日記帳におしゃべりを書くのが趣味になったの。だから寂しくない。学校によって給食の食べ方とかルールが違うから、慣れるのに忙しかったわ!



セツコさんのアトリエからはネコと墓地、多くの人々を乗せた電車が見える。「死」を象 徴する墓地、ネコと多くの人々が乗る電車=「生」。色とりどりのアトリエから発する圧 倒的な創作エネルギー。ここは“あの世とこの世、夢の国の間のような空間”だ Photograph By Hiroko Muto

-ところで疎開先はどんなところだったんですか?


父が兵隊に取られて、家族で栃木県西方に疎開したのね。疎開は超田舎暮らし。

私は目黒で生まれて、2年間以外はずっと東京だから、田んぼの風景や菜の花の香りが印

象的でとってもすばらしかった!


-疎開先で大変だったことは?


子どものころから、辛いことは忘れてしまうんですよね。

母が「東京の子は帰れ」って、石を投げる子がいると聞いたらしいの。で、心配して「学

校どうだった?」って毎日聞くと、私はいつも「おもしろかった!」と答えるんだって。


長女で幼いころから「母と近しい関係だった」というセツコさん。当時、本当に楽しかっ

たのかもしれないし、心配をかけたくないという気持ちからおもしろかったと言っていた

のかもしれない。


転校が多く、環境に順応しなくてはならなかった小学生時代。

そんな中で「どんな環境でも自分で楽しむ」スキルがこの時期に培われたのではないか。


もしくは、どんな環境でも「楽しいと思えば楽しくなる」と心に決め、無意識に実行して

いたのかもしれない。


“好奇心が赴くままに楽しむ”姿勢は今も昔も変わらない Photograph By Hiroko Muto


「大人と子どもはとらえ方が違う」


-戦時中、特に印象に残っていることは何ですか?


「大人と子どもはとらえ方が違う」ってことね。

日本が戦争に負けると、母や近所の主婦が「これから大変なことになる」「女や子どもは

馬や牛のように働かせるかもしれない」って話しているの。


でも子どもは「牛や馬か。田んぼを耕すにはどんな服装がいいかしら?」って。深刻に考

えないのね。パッと印象的にとらえる。子どもっておもしろいなーって思う。


ナゼかとっても白衣が似合う。玄米を炊いたりお茶を沸かしたりする相棒・ミニフライパ ンとともに「お医者さんのふりをして」 Photograph By Hiroko Muto

戦後すぐのこと。セツコさんにはK子ちゃんという、友達がいた。学校帰りに立ち寄る

と、部屋には外国製のピアノやフランス人形、オルゴールがある大邸宅。

セツコさんが応接間のソファーでお手伝いさんが出してくれたお菓子を食べていると、鮮

やかなレモンイエローのワンピースに着替えた、K子ちゃんが登場。


フリルがいっぱいついた、かわいいワンピースを「お母さんに見せてあげたい!」と思っ

たセツコさんはK子ちゃんと自宅へ。


-お母さんはどんな反応を?


「ねえお母さん!見て見て!このワンピース、お姫様みたいでしょ!」って。

そしたら母はチラッと見て家に入ってしまったの。よろこんでくれると思ったから、びっ

くりしてね。こんなにショックなことはなくて。

うちは古い着物を壊して洋服に縫い直してたから、私を不憫に思ったのかしら・・・。


「大人と子どものとらえ方は本当に違うなー」ってこと。

母のことを思うと・・・(涙ぐんで言葉に詰まる)苦労をかけたと思う。今でも忘れられない。


セツコさんによると、K子ちゃんの家は「お手伝いさんのほかには誰もいなくて、とても静かだった」という。オルゴールやワンピース、フランス人形を褒めてもK子ちゃんは頷くだけ。


「K子ちゃんも母も、かわいそう」とセツコさん。


子どものころから敏感で、人の気持ちによりそう。とても感受性がゆたかだったのが伝わ ってくる(写真は中学生の時に書いた日記)


1通のはがきが引き寄せた「師匠との出会い」


1956(昭和31)年、高校性の美術部員だったセツコさんが少女雑誌を読んでいた時のこと

。すると、「先生にお手紙を書こう」というコーナーが目にとまった。当時は作家の住所

が掲載されていたのだ。そこで、当時大人気だった抒情画家・松本かつぢ先生に「ご迷

惑にならないように」とシンプルに「もし絵の仕事をするなら、どういう手続きが必要か

」と往復はがきに自分の住所を書き、質問だけ送った。


すると、「絵を送って」とかつぢ先生から返事が届いたという。驚いたセツコさんはかつ

ぢ先生に絵を送った。それがきっかけで月に一度ほど、かつぢ先生に弟子入りすることに


「かつぢ先生は大御所だったので、貫禄たっぷり。照れ屋さんでよけいなことはおっしゃらなかったけど、あたたかくてユーモラスだった」

当時、デッサンに力を入れていたセツコさんに「少女の顔はかわいく描いた方がいい」と

アドバイスくれたという。


セツコさんのエピソードを聞くと、「たった1つの行動が、大きく人生を変えることがあ

る」「やはり行動することが大切なんだな」としみじみ思う。



花形だった銀行に就職したものの、「絵への道」が諦められず


高校卒業後、「家計を助けたい」と難関だった入社試験に合格し、安田信託銀行に就職。

花形の秘書室に配属され、上司や同僚にも恵まれ充実した日々を送っていた。


しかし「絵への道を諦めきれず、悶々としていた」とセツコさんは銀行で働きながら、雑

誌用の細々としたカットを描いていた。

二足のわらじ生活を続ける中で「銀行と絵どちらにも失礼」「どちらかに決めなくては」

という思いが募っていく。


軽やかな、風の精のようなセツコさんだが、デビュー以来、マネージャーを雇わず自分で 雑務までこなす。好奇心が赴くまま、風のような自由な感性と、地にしっかりと根を張って生きるような面も。「銀行でもきちんと仕事をしていたんだろうな」と思わせる Photograph By Hiroko Muto

そこで、セツコさんは師匠のかつぢ先生に「先生、勤めを辞めて絵の世界でやっていける

でしょうか?」と尋ねたという。


-先生はなんておっしゃったんですか?


「そんなこと誰にもわからないよ」って。


-「わからないよ」か・・・。確かにそうですね。セツコさんはどう思ったんですか?


わー、カッコいい!って!


「どうなるかわからない」。つまり、ダメかもしれないが「可能性もある」ということ。

そうとらえたセツコさんは1年ほどで銀行を退職すると決意。


心配した両親は大反対した。しかし、セツコさんは両親の前で正座し、「後悔しない・グチを言わない・経済的な負担はかけない」と誓い、説得した。

娘のかたい決意を目の当たりにした両親は以後、何も言わなかったという。


親は一般的に子どもが苦労するのを見たくない。だから安定した道を望むのだ。親や友人

から反対されると、決意が揺らぎそうになることもある。

時に、自分を貫く=Rockに生きるのは難しい。


自分を貫く=Rockに生きることができるかどうか。それは“決意の固さ”によるのだと思う。


念願叶ってイラストレーターに!しかし、苦悩の日々


セツコさんはついに、憧れだったイラストレーターに。しかし、駆け出しの新人には大き

な仕事は来ない。師匠から紹介してもらったツテを頼りに、雑誌で余白を埋めるイラスト

を描いていた。


当時、フリーになって心細くなり「なんで銀行を辞めちゃったんだろう」と思ったりする

こともあったという。


仕事がないが、時間だけはたくさんある。不安が募り、「頑張ろう」「寂しい」が交差し

、気持ちに波があったそうだ。



しかし、セツコさんは映画館で名画3本立てを観てファッションを学び、洋画家・猪熊弦一郎氏の 画塾に通い、スケッチブックにイラストを描き続けた(写真は当時のスケッチ)

仕事があれば編集部に原稿を届け、自分から提案してイラストを描き直した。帰りは神保

町の古本街で外国の雑誌を手がまっくろになるまで読んだ。すると、店主がおしぼりを出

してくれた。


急遽、代打でチャンス到来


2年後。チャンスは突然舞い込む。ある夜、『少女クラブ(講談社)』編集部から「急病

で先生が倒れ、代わりを探している」と連絡があった。


-どんな気持ちだったんですか?


いつも小さいスペースにカットの絵を描いていたの。だから眠らなくても、大きな

女の子を描けるのがうれしかった。



以後、これをきっかけに「うちの本にも同じような絵を!」と、依頼が殺到。セツコさんは人気イラストレーターへ。読者にとって憧れのお姉さんに


セツコさんがチャンスをものにできたのは、日々の積み重ねがあったからこそ。突然チャ

ンスが舞い込んでも、準備していなければ通り過ぎてしまう。


60年代から70年代にかけてセツコグッズが大ブームに。1967(昭和42)年には新宿伊勢 丹百貨店に「セツココーナー」が誕生した

30代は家族や周囲の人から結婚か仕事かを迫られていたという。デート中も「描きかけの

仕事がたくさんあって、いつも気になっていた」とか。パーティーには、顔だけ出してす

ぐに帰っていたそうだ。


セツコさんは独身。流行が誕生する最先端の街に1人で暮らしている。

「昔はひとりぽっちの少女に。今はひとりぽっちのおばあさんに向けて。いつも孤独がテーマになってるのかもね」と笑う。



40代は少女雑誌から絵本の世界へ。1982(昭和57)年、44歳の時に大ヒットシリーズ『おちゃめなふたご(ポプラ社)』刊行

セツコさんがすごいのは、プロになった後も勉強し続けていること。

60歳を超えて絵本作家・荒井良二氏の絵本塾に通った。ただ本人は“別に大したことじゃな

いわよ”という風に「たまたまチラシを見て、電話で聞いたら年齢制限はないっていうから

通ったの」と話す。


子どものような好奇心のままに、「おもしろそうだからやってみる」という精神を持ち続

けているのがすごい!


-セツコさんでも、イラストのアイデアが浮かばない時ってあるんですか?


そういう時はお散歩する。煮詰まった時は外に出て、机から離れてテーマを忘れると、ヒ

ントが“いっぱい・いっぱい”降ってくる時があるの。



うまくいくかわからない。だからときめくの!


-最後に「Rockに生きたいけど、一歩を踏み出せない」という人にメッセージを!


よく言うんだけど、失敗した方がいい。だって失敗はヒントの山だからね。

この世は筋トレと脳トレでできてるの。つらい仕事と思えば「つらい仕事」。でも筋トレ

と思えば楽しいじゃない?困ったことにあうと、脳がよろこぶんだって!!!(笑)


毎日は小さな冒険!何があるかわからないけど、不思議の国の「アリス」の気分で一歩踏

み出すのがステキ。うまくいくかどうかわからないけど、わからないからときめくの!


Photograph By Hiroko Muto

取材後記

誰に対しても謙虚で、分け隔てのない姿勢と果てしない好奇心。精神が自由でなんでも楽

しもうとするしなやかな感性。プロになっても学校に通う向上心と「描き直しは全然嫌じ

ゃない」と言う高いプロ意識。


セツコさんが50年以上も第一線で活躍しているのは、実力はもちろん「一緒に働きたい」

と思わせる魅力があるからだと思う。


会う時はいつも「これを描いてるの」と話す。プロになった今でも、とにかく絵が大好き

なのが伝わってくる。


ある雨の朝、撮影でアトリエへ。部屋の電気はついているようだが、応答なし。電話もつ

ながらない。「どうしたんだろう?」と心配していると、黒い手づくりのレインコート姿

のセツコさんが登場。そして「おじいさんがね・・・」と語り始めた。


不思議に思ってセツコさんを見ると、手には黒い折りたたみ傘と白い袋。

「取材前に買いに行く→雨の中、傘を持たずに歩くおじいさんを発見→家まで送っていたら

遅れてしまったのだ」と推測。


困っている人を発見すると、さりげなく声をかけ、助けた後は風のように去って行く。


別の取材後、セツコさんがかけていたど派手な“HAPPY BIRTHDAY”サングラスが気になり 、「(店に)行ってみたい!」と言うと、ていねいに道順を教えてくれたPhotograph By Hiroko Muto



bottom of page